バングラデシュ

【第3回】見た目がいいと得?見た目の権威 “帰ったのに異国”──バングラデシュ12年ぶりの帰省録

neocross

30代前半で帰省したということもあるのだろう。
行くところどころで、結婚はしないのか?
なんでしないのか?
どういう人がいいんだ?などとお節介を焼いてくる。

あそこの娘さんはいい子だぞ、
医者の娘さんで紹介できる人いるぞ、
幸せは家庭にあるぞなどとみなそれぞれ自分の理想を言ってくる。
この感性は日本の上の世代と同じかもしれない。

聞いてくる人のほとんどは私よりかなり年上のお母さん世代なので、私は笑顔で「いい人と巡り会えたらします」と返す。帰省で覚えた処世術だ。

そんなやり取りのなかで、今でも心に残っている一つの会話がある。ダッカからラムゴンジ(少し地方)に行った時の会話だ。
先に言っておくが、差別的な意はない。

『もう30も過ぎていい歳でしょ。結婚はしないの?』

「いや〜いい人と巡り会えたらするつもりです」

『どういう人がいいの?見た目とか性格とか』

「うーん、、見た目よりも穏やかで性格の合う人がいいですね」

『ほんとうに?“কালা”でもいいの?』

「そうですね。心が合う人が一番いいです」

『確かに。心が合う、いい事言うね。その通りだよ。ほんとうはそれが一番いい』


初めは言っている意図が分からなかったが、কালা(kala)とは“黒い”という意だ。ちなみに、綺麗な言葉として使う場合はকালো(kalo)という。

会話の流れはごく自然だったが、その言葉には無意識のうちに侮蔑的なニュアンスが含まれていたように感じ、わたしは少し驚いた。

あとで別の人に聞いたが、バングラデシュではデスクワークの方が圧倒的に収入が高い。
ホワイトカラー(白い襟)とブルーカラー(青い作業服)の職種の違いを見た目で判断していることになる。頭脳労働と肉体労働の違いとも言われる。

つまり、「外の仕事で紫外線をたくさん浴びている人よりも、ビルの中でエアコンが効いた仕事をしている人の方が収入が高く安定しているからおすすめ」という解釈になる。
この思考ルートは日本やアメリカにもあるだろう。

失業率も高く、雇用も安定していない社会では公務員も人気の職種だ。
大学を卒業したのになぜ公務員にならなかったんだ?とも言われた。

AIの普及によってこの価値観は徐々に変わりつつあるが、依然として根強く残っているのも事実だ。

あらむ
あらむ

見た目の印象は世界中どこにでもありますよね。

↓帰省時にとりあえず思ったことを書きなぐったメモ

ヨーロッパやアメリカ、日本がレベル4の先進国なのは世界中が知っている。
インターネットとYouTube動画の登場によって視覚的に生活水準が知られるようになり、『こうなりたい!』という欲は駆り立てられ、競争も激しくなる。

よく言われることだが、先進国には北国が多い。
改めて地球儀でみるとわかるが、日本も実はけっこう北にある。ある人は「日本は雪の国」と表現していた。

わたしは子供の頃から日本育ちということもあるのだろうが、バングラデシュで育った人と比べると「かなり肌が白いほうだ」と言われることが多い。
地球の丸みが与える影響は、気候や農業だけでなく、人々の肌の色にまで及ぶのだ。

日本から来たというだけで、“外から来た人”という印象を強く与えた。
加えて、肌の色、歯並び、身なり、言葉づかい——それらが「見た目の権威」として無意識に評価されていることに、滞在中たびたび気づかされた。

ではなぜ、熱帯の国々よりも冷帯の国が発展しているのか?

これについて面白い考察をしているYouTube動画があったので、紹介したい。
重科学工業がなぜ、熱帯地域に少ないのか?が面白く仮説立てしてある。

  • 雨季と乾季の差が激しく、長期的インフラ計画が困難
  • 高温多湿な環境では“蓄財”ができなくなり、大資本が生まれにくい
  • 作物が豊富で「働かなくてもなんとかなる」環境(マルサス的発想)

『熱帯に先進国が少なく、温帯と冷帯に先進国が多すぎる件について』
〜地理の雑学ゆっくり解説〜

見た目の優位性が“信用”に変わる社会構造

バングラデシュに戻って感じたのは、「見た目が信頼を生む社会」だということだ。
もちろん、これは日本でもある程度そうなのだけれど、バングラではその傾向がもっと強く、もっと直接的だ。

例えば、時計がピカピカしているだけで、周囲の人の態度が変わる。
服装が綺麗だと、警察も役所も「この人は話のわかる人」として扱う。
肌が白いだけで「どこの国から来たの?」と話しかけられ、立ち居振る舞いに品格があると、年齢に関係なく“上”に見られる。
高度成長期の日本のようだ。

これは、いわば外見による瞬間的な信用の獲得だ。言葉や肩書よりも、まず視覚的な印象が先に来る。
社会全体が「縦の秩序」に敏感で権威主義的、誰が“上”で誰が“下”か、を早く見分けることが、社会的な生存戦略でもあるからなのだろう。

腹が出ていると、下に見られる?

そんな社会では、身体そのものもまた“見た目のランク付け”に使われる。
たとえば「腹が出ていること」は、単に健康問題ではなく、自己管理ができていない=信用できないと見なされる傾向すらある。

もちろん、現地の油まみれの食文化や気候条件を考えれば、体型維持は簡単ではない。
実際、バングラでは肉や油が中心の食事が一般的で、野菜は高いし、ヘルシーな選択肢は少ない。
それでもビジネスの場ではスリムな体型の方が信用を得やすい。

「この人、ちゃんとしてるな」
その一瞬の印象だけで、商談がスムーズに進むこともあれば、逆に話が流れてしまうこともある。
見た目の印象は、言語よりも速く、そして強力に作用するのだ。

なぜ“見られ方”にこだわるのか?

それは単なる見栄ではなく、「生き残り」のための知恵なのだろう。
信用が可視化されていない社会では、人間関係や取引の安全性は“見た目”の判断も入ってくる。
しかもそこには、インターネットで拡散された「先進国らしさ」という幻想も混ざってくる。

人々はYouTubeで見た「東京の駅員」や「パリのカフェ」を頭に浮かべながら、自分たちの生活と比較する。
だから、歯並び、服のセンス、肌の色、スマートな話し方——
それらすべてが「レベル4」の象徴であり、そこに追いつこうとする努力の対象でもある。

“見た目”は武器にもなる──選べる立場にいることの意味

バングラのような社会では、見た目は“武器”になる。
いや、SNSの影響でルッキズム化している日本や世界中でもだろう。(日本の美意識とは少し違うが)
そして、見た目で生まれる信用をどう使うかがその人の力量になる。

外見に説得力があっても、中身が伴わなければすぐに見透かされる。
逆に、質素な服でも、話し方や誠意がある人は時間をかけて支持される。

「どう見られるか」と同時に、「何を語れるか」「何を実現できるか」
この両方が揃って初めて、本当の意味での“権威”が生まれ、持続するとわたしは思う。

終わりに──“見た目の権威”とどう向き合うか

見た目で判断される社会は、時に残酷にも思えるが、それは同時に「チャンスがある」という希望でもある。
服を整え、姿勢を正し、清潔感を保つ。
そんな小さな積み重ねが、無言の信頼につながっていく。

「どう見られるか」を気にする社会の奥底にあるのは、“生き抜くための工夫”だ。
自分という存在がどう社会に受け取られているのか、それを見つめ直すいい機会でもあった。

著者について
新夢シャド
新夢シャド
1991年、バングラデシュ生まれ。7歳から東京で育つ。大学を卒業後、株式会社ファミリーマートで総合職として10年勤務。その後、ネオクロスを起業し、バングラデシュを中心に南アジアの投資や旅行、文化や人の交流などを幅広く発信している。
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