バングラデシュ

【第5回】 宗教が支える社会秩序と格差 “帰ったのに異国”バングラデシュ12年ぶりの帰省録 

neocross

海外に行くと、まるでまったく別の世界に飛び込んだような感覚になる。

言語、文化、思想、人種、政治、気候、地理──
何もかもが違う。

12年ぶりに日本からバングラデシュへ帰省した私も、その“異世界感”を久しぶりに体験した。

とくに「思想の違い」は、人が集団を形成するうえで非常に大きな影響を及ぼしている。
というより、“同じ思想と言語”を持つ人々が集団を形成している、というほうが正確だろう。

思想を理解するには言語が必要だ。
特に文字と印刷技術の発明は、思想の共有において革命的だった。
それまではザビエルのような宣教師が、各地を歩いて一人ずつ教えを説いていた。
しかし文字があれば、「読み書き」だけで思想を伝えることができるようになったのだ。

ただ、書けずに“読むだけ”の教育がされることもある。
それは、支配者にとって都合がよいからだと私は思っている。

さて、思想は私が大好きなテーマだ。
西洋思想、東洋思想、日本思想──
大人になってから学び直してみると、こんなに違うのかと驚かされる。

少し長くなってしまったが、今回の帰省で感じたことをざっくり書いてみたい。

あらむ
あらむ

なんで考え方ってこんなに違うんですかね〜

↓帰省時にとりあえず思ったことを書きなぐったメモ

*2024年3月

お気づきかもしれないが、冒頭から宗教と「思想」という言葉を使っている。
宗教という言葉は多義的になりすぎているため、思想という言葉と併用して使いたい。

思想としての宗教──見えないルールの正体

バングラデシュに戻ると1日の中でアザーン(礼拝呼びかけ)というモスクのスピーカーから流れる音がある。

仕事中でも、商店でも、食堂でも、アザーンが流れれば時間が一度止まるような空気になる。
やる・やらないは自由だが、「祈る時間がある」という前提で生活が設計されている。

思想とは、集団の中にある「共通のルール」。
法治国家が整備されたのは人類史から見れば最近の話。民衆が自分たちでルールを作れるようになった民主主義は、もっと最近だ。

それまでは権力者が支配し、ルールは彼らの都合によって変えられてきた。
宗教の解釈すらも例外ではない。

支配と宗教──ルールは誰のために?

たとえばキリスト教の歴史を見ると、カトリック教会が民衆からお布施(免罪符)を徴収していた時代がある。
ラテン語の聖書を読めない民衆は、そこに何が書かれているかを知る術がなかった。
それに異を唱えたマルティン・ルターが、聖書をドイツ語に訳し「宗教改革」が起きた。

日本もまた例外ではない。
神道や仏教は集団形成に利用され、戦前には古事記を使った国家主導の権威主義教育があった。戦後、GHQにより廃止され、現在の日本には「強い宗教的思想」は表向きには存在しない。

それでも日本の人々は、明らかに“まとまって”生きている。
では何がその軸になっているのか?

私は、「言語」だと思う。
日本では、思想の軸が希薄なぶん、言語によって共同体が成立していると感じる。

本来、思想が違えば、たとえ言語が同じでも分断が起きるはずだ。
だが日本では、言語が通じるという一点で集団が成立する。
日本語は子どもの頃から育たないと綺麗に発音できないため、“母語として話すかどうか”が、共同体の一員かどうかを見分けるひとつの基準になっているのではないだろうか。

つまり――
大きな集団形成の構造はこうだ。

第一に思想。第二に言語。
人種や血ではない。

南アジアや朝鮮半島のように、同じ民族が思想の違いによって異なる国家を形成するように、
真に集団を分けるのは「どんな世界観を持ち、どんな言葉でそれを共有するか」だろう。

バングラデシュのイスラムと社会秩序


バングラデシュでは金曜日は休日だ。カレンダーも赤い。

金曜日は“聖なる日”であり、Jumma(ジュンマ)と呼ばれる昼の礼拝で男たちがこぞってモスクに集う。(女性は家で礼拝が文化)

帰省中に父に連れられて金曜日にモスクの礼拝に行った。

モスクで礼拝をする際は、前に説教師(フズル)がいてその人が教えを読む。
「盗んではいけない」「富も貧しさもいずれ散る。良い行いをしよう」。
これは道徳の授業ではなく、日々の“生き方の指針”なのだ。

イスラムの世界には断食(ラマダーン)の時期、人々は日中の食事を断ち、日没後にだけ食べるという教えがある。
空腹を「共に」富める者も、そうでない者も経験する。
その後の祭りで、富めるものは牛を買い、肉をみんなで分け合う。
宗教が行う分配システムだ。

あわせて読みたい イスラム教とは?【南アジアの宗教】
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社会秩序と善悪の感覚

日本にいると「道徳」と「宗教」は別物だと感じやすいが、バングラデシュではこの二つがほぼ一体化している。

たとえば、酒・豚肉・ギャンブル・利子──
これらはイスラムにおける「ハラーム(禁忌)」に分類される。
特に酒と豚肉はかなり強く避けられており、ギャンブルと利子も基本的には禁止事項だ。

面白いのは、これらのルールが警察や法律ではなく、共同体の目によって機能しているという点。
「誰も見ていなくても、神は見ている」。
この感覚が、社会の中で自然と内面化されているのだ。

だから、「嘘をつかない」「盗まない」「困っている隣人を助ける」──
そういった行動は、宗教的に“正しい”だけでなく、社会的にも“尊敬される”人として評価される。

分配という思想──資本主義では補えない格差

今回の帰省で一番考えさせられたのは、「分配の思想」だ。

国家による課税や社会保障とは別に、個人が社会に対して行う分配。
20代のころ、「親が勝手に自分のお金を寄付してる」と反発していた自分を、今では恥ずかしく思う。

もちろん、まずは自分を優先することは大前提。それができなければ価値を生み出せない。
価値を創造できなければ分配など絵空ごとで終わる。

しかし、現代の資本主義には、この“分配の思想”が希薄だと感じる。
企業は営利を目的に動き、感情や倫理を持たない。
利益を出したうえでの「分配」は存在するが、綺麗なトリクルダウン(富の滴り落ち)は起きていない。
給料を上げるには、投資や貯蓄とトレードオフで考える必要がある。“人間”というより“コスト”として計算される世界だ。

だが、昇給が行われている企業を見ると、そこには“個人”として分配の思想を持った意思決定者がいる気がする。
市場での分配は「システム」ではなく、「人の意思」によって行われているのだ。

とはいえ、自分で血反吐を吐いて得た富を簡単には手放せない、という気持ちも理解できる。

まとめ 思想を持ち、考え、選ぶということ

いろんな思想を学ぶのはおもしろい。競争による集中、協調による分配。
今の時代にあった組み合わせで新しい思想ができないものかとつい考えてしまう。

社会全体のことなど個人にはどうにもできないが、身近な人には少しだけ優しくありたいものだ。

この書籍めちゃくちゃおすすめです

著者について
新夢シャド
新夢シャド
1991年、バングラデシュ生まれ。7歳から東京で育つ。大学を卒業後、株式会社ファミリーマートで総合職として10年勤務。その後、ネオクロスを起業し、バングラデシュを中心に南アジアの投資や旅行、文化や人の交流などを幅広く発信している。
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