バングラデシュ

【第1回】空港に降りた時の懐かしさ “帰ったのに異国”──バングラデシュ12年ぶりの帰省録

neocross

大学を卒業して、新卒でファミリーマートに入社し10年。
SVという仕事柄、1週間以上の休みはなくずっと働いていた。

今思えば休めないのではなく、私がただ休むと迷惑がかかると勝手に思い込んでいて休んでいなかっただけなのだが。

そんなこんなで、20歳の時にバングラに行ったきり行っていなかった。ちょうど会社を退職したタイミングで父親から、親族への挨拶まわりや祖父の墓参り含めて戻ろうと言われたので一時戻ることにした。

自分としても退社した新しい門出だったし、何かビジネスの種が見つかればいいかなと思っていたのでタイミングも良かった。

大人になって戻ると感じることが全然違うものだ。
そんな帰省録をまとめてみる。

あらむ
あらむ

12年でだいぶ変わったなーとしみじみ

↓帰省時にとりあえず思ったことを書きなぐったメモ↓

*帰省は2024年3月

日本の成田空港からダッカのシャージャラル国際空港の直行便で帰国した。
利用したのはバングラデシュの国際線ビーマン航空だ。(ビーマンはベンガル語で“飛行機”の意味です。JALみたいな感じですね。) 費用は往復で一人85,000円。

日本からバングラデシュの直行便は2023年までなく、前回帰国した際は中国東方航空で中国経由で帰っていた。2回乗り換え、トランジットの待ち含めて約18時間、、 
2度と乗りたくないと思っていたので週一でも直行便ができたのはありがたい。

直行便だと時差(3時間)を抜いて、6時間ほどだ。

シャージャラル国際空港到着

空港に着くとまず、空港から出るのに時間がかかる。

預けたトランクや荷物が出てくるのが遅い。
日本だとほとんど自動で飛行機からレールで流れてくるのだろうが、かなり手動だ。

なかなかバゲージクレームに流れてこない。。
30分ほど待っていたらようやく自分のトランクが流れてきた。

あらむ
あらむ

盗まれてないか心配になった。笑

自分の荷物を取ると入国審査ゲートへいくが、ここも手動だ。
入国審査員が一人一人のパスポートを手動で確認し、パソコンと照らし合わせている。

昔の日本の空港を利用した方ならわかると思うが、入国審査員が急ぐ素振りは全くない。
めちゃくちゃ並んでいるのに、手を止めて隣の従業員と笑顔で話している。

おやくしょしごとだなーと思いつつ、『早くやってくれ!この列が見えないのか!』
と思ってしまう。
向こうからしたら日常なのだろう。

なので時間と心に余裕を持っていくことをおすすめする。

空港を出ると

日本は空港に誰でも入れるがバングラデシュはチケットとパスポートがないと空港の建物自体に入れない。海外だとそういう国も結構ある。

建物の中は人が入れず空いているし、エアコンも入っているし涼しい。

しかし、空港を出ると一気に異国だ。

まず、亜熱帯ならではの湿った暑さと砂子こりが襲ってくる。3月だが気温は30度を超える。
なつかしさが蘇った。

そして人の多さに圧倒される。さすが人口密度世界一の国。
待ち合わせの人だけでなく、海外からやってくる人は珍しいので金網フェンスの外から多くの人が見ている。

格差が激しく、貧困も完全には撲滅できていないので施しを求める人もたくさんいる。もちろん一個人が全ての人に施しをするのは不可能だ。構造に問題がある。のちに話すがそれでも秩序があるのは宗教の信仰があるからだと感じる。

待ちあせてしていた従兄弟と合流し、用意してくれた車に乗った。
従兄弟は父親のお姉さんの息子で、40代中盤とわたしよりかなり年上だ。

若い頃少しだけ日本で働いていたことがあるらしく、『コンニチハ、ワタシハ、ゲンキデス』と流暢な日本語で挨拶してくれた。
私も『アッサラー•マライクム』とカタコトのベンガル語で挨拶した。

言語は使わないと忘れてしまうものだ。

車の8割はトヨタ車

駐車場でも思ったことだが、道路を走っていると視界に入ってくるのは
トヨタトヨタトヨタトヨタホンダトヨタトヨタトヨタトヨタホンダトヨタ。

ほとんど日本車だ。しかもトヨタ車。さすがは世界のトヨタ。

父親の代で、日本の中古車をバングラデシュに輸出している商売人が多いのを思い出した。
今は車が多すぎて逆に渋滞が社会問題になっている。

圧倒的トヨタ車
何年落ちかわからないバス

俺たちは”アイツら”みたいに争わない

車に乗っていて、新しい高速道路や綺麗に舗装された道路を見て12年前と全然違うことに驚いた。

少し走っていると大きい道路工事の作業現場を通った。
外は33度、強い太陽が照りつけている。安全具や熱中症対策はしていない。

『12年前と全然違いますね。道路も綺麗だし、すごい発展してるのがわかります。みんな真面目で一生懸命なんですね。』と従兄弟との会話の話題にしてみた。

「そりゃそうだ、みんな食うのに必死だかね。この10年でかなり発展したよ。もうとっくにパキスタンを超えているね。俺たちはアイツらみたいに争わない。目の前の仕事をコツコツやるだけだ。」

この会話は印象的だった。
国の歴史的にパキスタンと戦争して国が誕生した経緯もあり、かなりパキスタンを意識している。

インドも総GDPでイギリスを超えたことを国民が喜んでいた。アメリカもきっとそうだったのだろう。

ただ、国民の勤労が国の汚職で搾取されていたことは、のちの大規模デモ後に発行されたバングラデシュ経済白書でわかる。

勤労だけではダメなのだ。国家教育以外での勤勉もまた必要なのだ。

無事、宿に到着

無事、首都ダッカの泊まる家に到着した。

ダッカでお世話になったのは、叔母の家だ。父親の姉で車を用意してくれた従兄弟の母親にあたる。

空港が都市のど真ん中にあることもあり、1時間半ほどだった。渋滞がなければ30分ほどで着いていただろう。

用意されたたくさんのご飯を食べ、初日は早めに床に着くことにした。

どっと疲れたが刺激的な一日だった。

12年前はダッカでも2時間ほど民家の電気が停電していたので少し不安だった。が、結論ダッカでは一度も停電していない。電気がくるのはありがたい。

発展の賜物だ。

ダッカの泊まらせてもらった叔母家
著者について
新夢シャド
新夢シャド
1991年、バングラデシュ生まれ。7歳から東京で育つ。大学を卒業後、株式会社ファミリーマートで総合職として10年勤務。その後、ネオクロスを起業し、バングラデシュを中心に南アジアの投資や旅行、文化や人の交流などを幅広く発信している。
記事URLをコピーしました