【最終回】第9回 リーダーに必要な資質とは?安定と激動で変わる人望の条件 “帰ったのに異国”バングラデシュ12年ぶりの帰省録

バングラデシュに行くと、やたらとみんな声が大きい。
日本でも旅行客や外国の人の喋り声が大きくて、思わず嫌悪感を抱いたことがある。
大声での議論にはどうしても圧迫感を感じてしまう。
両親もバングラデシュの人と喋るときは自然と声が大きくなる。
その理由が、帰省してみてなんとなくわかった気がする。

穏やかで優しい、豪胆で力強い。どっちも必要なんですね。
安定と激動で変わるリーダー像
豪胆で情熱的なリーダーたち
今回の帰省では、アパレル工場のオーナー、自動車部品会社の社長、日本語学校の代表、地主、大株主、人材派遣会社のオーナーといった、いわば“現場のトップ”と直接話すことができた。
こういった人たちと会える機会そのものが貴重だ。
ご縁を繋いでくれた父には感謝したい。
インターネットやAIで情報格差は縮まってきたが、依然としてクローズドな情報は存在し、それは人を介してしか得られないだろう。
印象的だったのは、彼らに共通する「豪胆さ」だ。
年齢層が高めということもあるかもしれないが、皆、声が大きく、主張が明確だ。
正直、威圧感に震えていた。
バングラデシュでは、安定した雇用が少なく、自営業が主流。
つまり「やるか、食えないか」の世界。
その必死さがリーダーたちの気迫を形づくっているのかもしれない。
歴史が求めた“強いリーダー”
歴史を見ても、混乱期には必ずと言っていいほど「強いリーダー」が求められてきた。
ナポレオン、毛沢東、ヒトラー、ゴルバチョフ、織田信長、ムッソリーニ、そして近年のトランプ。
カリスマ的で、敵を作ってでも前進しようとするリーダーたちだ。
たとえば信長は、ルールを破った家臣の首を自らはねたとされている。
秩序の維持のためとはいえ、その冷酷さは組織の崩壊も招きかねない。
だが彼がいなければ天下統一はなく、その後の徳川幕府250年の江戸の安定はないだろう。
「人々が自由を放棄したとき、彼らは強い指導者を求める」
――エーリッヒ・フロム(『自由からの逃走』より)
豪胆さの危うさ
豪胆さで人を惹きつける方法は、武器であると同時にプレッシャーの源でもあると感じた。
リーダーたちは人々を従わせる代わりに、明確な成果を出し続けなくてはならない。
目的を達成しているうちはいいが、そうでない場合は一気に不満が襲いかかる。
信頼を失えば、豪胆さは暴力と紙一重なのだ。
恐怖による統治は長くは続かない。
現代では(特に先進国では)、監視や教育といった“ソフトな管理”に置き換えられている。
中世のような鉄と血ではなく、制度と意識によってなされ、恐怖の代わりに“内面化された規律”によって統治される社会だ。
安定の裏側には、目に見えない“規律”という名の圧力が潜んでいることも覚えておきたい。
「近代の権力は、見えない場所から働きかけ、人々を自らを管理させるよう仕向ける」
――ミシェル・フーコー(『監獄の誕生』より)
男社会と「戦士」のような責任
バングラデシュでは、雇用機会が限られている。とりわけ女性は不利だ。
工場のライン作業など、賃金の安い労働の多くが女性に割り当てられている。
一方で、医者や看護師、テレビアナウンサーなど、社会的評価の高い職は長期の教育投資が前提となる。
貧しい家庭で息子と娘、どちらかを大学に行かせるなら、息子を優先する家庭が多いという。
必然的に、家計の中心は今でも男性が担っている。
これは、単なる性別役割ではなく、経済構造と教育機会の歪みが生んだものだ。
周囲から戦士であることを期待される男たちが、声を大にして自分を主張する理由が少しわかった気がした。
謙虚な銀行マネージャー
ダッカ郊外の地方銀行。
ここでは借入と返済のために、多くの人が列をなしていた。
日本のメガバンクが個人融資をほとんど行わなくなった現状と比べて、バングラデシュの銀行は地域との関係が色濃く残っている。
そこで出会った銀行マネージャーは私と同世代。
ダッカ大学出身のエリートだが、穏やかで話し方も落ち着いていた。
収入の安定が、人に余裕を与えるのかもしれない。

日本でも変わりつつあるリーダー像
職場の上司には、いろんなタイプがいる。
理論的で効率重視な人
豪胆でエネルギッシュな人
社内政治が上手な人
ありがたいことに、会社員時代には様々なタイプの上司と関わることができた。
そしてどの上司も、手段は違えど目指すべきゴールは「売上を上げる」ことだった。
ただ、国内市場の伸び悩みや人材の多様化により、リーダーに求められる資質は確実に変化している。
特に変化が顕著なのが“中間管理職”の立場だ。
かつては、部下を厳しく叱咤し、数字で引っ張るタイプが“できる上司”とされていた。
しかし今、部下からは「共感」や「寄り添い」が求められる。
それでも、上司(社長や部長)からは引き続き「数字を出せ」とプレッシャーをかけられる。
優しくありたい。けれど、結果も求められる。
この板挟みに苦しんでいるのが、今の中間管理職だ。
強いリーダーシップを発揮すれば“パワハラ”と受け止められ、かといって何もしなければ“リーダー失格”とされる。
まさに“正解のない時代”におけるリーダー像の迷走である。
特に、かつての厳しい指導文化の中で育ってきた40代以降の管理職にとっては、時代の変化は戸惑いそのものだろう。
正解は与えられず、自分で考え、自分で設計していく──
今、求められているのは「新しいやり方」を自ら模索し、創り出せるリーダーなのかもしれない。
まとめ:豪胆さと穏やかさは両立できる
私が出会ったリーダーたちは、外では厳しく、家では穏やかだった。
怖そうなおじさんも、孫の前では優しい笑顔を見せてギャップに驚いた。
社会の中で競争が発生するからこそ、“強さ”を求められる。
しかし、それは本来の人格とは別の“モード”として発動されているに過ぎない。
リーダーには、場面ごとに資質を使い分けるバランス感覚が非常に重要なのだと思う。
豪胆さは大きく振り回す剣ではなく、必要なときに抜く小刀のように扱いたい──そんなふうに思った帰省だった。
あなたは、どんな時代に、どんなリーダーを目指しますか?
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